キャリーミーでプロとしてのキャリアが広がる

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9章 あなたがいたから、今のキャリーミーがある 戦友との別れ、一人立つ覚悟

大澤亮

大澤亮

1972年、愛知県生まれ。早稲田大学時代に両親から留学に反対され、自腹で米国に留学(カリフォルニア州立大学サンバーナーディーノ校→ U.C.バークレー)
2009年、株式会社Piece to Peaceを創業し代表取締役に就任。2016年、プロ人材による課題解決事業“CARRY ME(キャリーミー)“を創業。

キャリーミーの物語を語る上で、毛利優子の存在を抜きにすることはできない。彼女は単なる創業メンバーではない。事業の母体であるPiece to Peaceが債務超過という名の暗闇の底に沈んでいた時、たった一人で蜘蛛の糸を垂らしてくれた「救世主」だった。

あれは2015年のこと。個人間のスキルシェアサービス「shAIR」は会員こそ増えども収益化には程遠く、会社は倒産の危機に瀕していた。万策尽きた私の元に、一筋の光をもたらしたのが彼女だった。

「プロ人材」事業の構想を彼女に話したものの、「システム開発の予算がない」と悩んでいた時だった。

「大澤さん、こんなサービスがあります。月数万円ですぐにプロ人材の登録、集客のサイトが作れますよ」

当時プロ人材としてチームに参画していた彼女が見つけてくれた、安価なパッケージサービス。それが今日のキャリーミーの原型となったのだ。 資金も広告費もない私たちに代わり、彼女は自らのSEOスキルを駆使して、サイトに次々とプロ人材を呼び込んでくれた。 報酬もわずかしか払えない状況で深夜までチャットを交わし、未来を信じて共に走ってくれた。

組織拡大の陰で流れる「最高の戦友」との不協和音

彼女は私の最初の、そして最高の「戦友」だった。だからこそ、彼女の変化に気づいた時、私は見て見ぬふりをしていたのかもしれない。事業が軌道に乗り、組織が拡大していくにつれ、私と彼女の間に、見えない溝が生まれ始めていた。

経営者としての私と、誰よりも「人」を大切にする彼女との、価値観の相違。

会社の成長のためには、時に非情な決断も必要になる。成果を出せないプロ人材との契約終了、黒字化に向けた厳しいコスト管理。私はそれを経営者としての責務だと考えていた。だが、彼女にとっては仲間を切り捨てる「ドライ」な行為に映っていたのだろう。

もしかしたら、知らず知らずのうちに「プロ人材の活用の価値」への解釈に、毛利と私、役員との間で乖離が生まれていたのかもしれない…。

振り返ってみると、毛利は「中途の正社員では採用できないレベルの、ずば抜けて優秀なプロ人材を、いつでも、すぐに仲間にできる」ことに価値を見出していたのだと思う。

私はもちろん、その「ずば抜けて優秀なプロをすぐに登用できる」ことに価値は見出していた。それと同時に、こんなことも考えていた。

「会社はステージによって必要な人材やスキル要件は変わる。そこを柔軟に、スピード感もってプロをキャスティングできたり、交代できたり、変化に対応した組織を創れる」ことにも大きな価値を見出していた。その一環として、「成果が出ないプロは解約も厭(いと)わない」という姿勢はある意味、私にとっては当然のスタンスだった。

「大澤さんには、もうついていけないかもしれません」

ある日、そう漏らした彼女の表情には深い悲しみが滲んでいた。 その言葉は、私の胸に重く突き刺さった。事業を守るために前だけを見て走ってきたつもりが、いつの間にか最も大切な戦友の心を置き去りにしてしまっていたのか。答えを出せないまま、運命の日は刻一刻と近づいていた。

会社の急成長は嬉しい悲鳴でもあった。組織が大きくなるにつれ、かつてのスタートアップらしい自由闊達な雰囲気は、裏を返せば「仕組みの不在」を意味する。その課題を解決すべく、私は外部から業務委託でCOO(最高執行責任者)を招聘した。

上場会社でもCOOや役員を経験していた彼は事業整理のプロとして、株主とのやり取りから社内プロセスの整備までを見事にこなし、約1年という契約期間の中でキャリーミーが組織として次のステージへ進むための土台を築いてくれた。彼の任期満了による退任は計画通りの円満なものだったが、それでも会社の舵取り役が一人去ることに一抹の寂しさを感じていた。会社がまさに変革の時を迎えようとしていたのだ。

もう私が貢献できる場所ではなくなっている」決別の時

その日の毛利の表情は、いつもより少し硬く見えた。業務報告がひと通り終わった後、彼女はふっと息を吸い込み、意を決したように切り出した。

「大澤さん、少しお時間いただけますか。……私、キャリーミーを卒業しようと思います」

ーー卒業。

その言葉の響きはあまりにも穏やかで、だからこそ私の胸を鋭く抉った。頭が真っ白になり、言葉が続かない。「なぜ?」という問いすら喉の奥で凍りついた。

彼女は私の動揺を察したように、静かに言葉を続けた。
「会社のステージが、もう私が貢献できる場所ではなくなってきたんだと思います。キャリーミーはもっと大きくならなきゃいけない。でも、私は……」

そこで彼女は一度言葉を切り、少しだけ視線を伏せた。

「大澤さんには取締役にまで引き上げていただいて、資金調達や、急成長、本田圭佑さんの活用、これからの世界観の共有など、いろんな経験をさせてもらって感謝しているんです」と語った。しかし…

「4人目の子どもも育てているんです。これからは、母親としての時間も大切にしたい。それに、会社のステージが変わりました。今の会社で私が貢献できることは限定的だと思っています」

会社のステージの変化と、彼女自身のライフステージの変化。理由はあまりにも正しく、反論の余地はなかった。だが、私の心は理屈では到底追いつけないほどの衝撃に揺さぶられていた。引き止める言葉を探せば探すほど、それは無力な言い訳にしかならないように思えた。

毛利からの相談、報告を受けたあと、一人になったオフィスで私は深く椅子に沈み込んだ。窓の外はいつの間にか夕闇に包まれていた。「戦友の離脱」という現実は、私の内に潜んでいた三つの巨大な不安を、一気に噴出させた。

一つは「組織崩壊への不安」。毛利はその人柄から、誰よりも慕われていた。「毛利さんがいるからキャリーミーで働いている」そんな社員も多いはずだ。その毛利がいなくなる。彼女を信じてついてきたメンバーたちが、一斉に会社を去ってしまうのではないか。かつてのエース社員の退職が引き起こした連鎖が悪夢のように蘇る。

二つ目は「事業停滞への不安」。CMO(最高マーケティング責任者)である彼女は、キャリーミーの成長エンジンそのものだった。そのエンジンを失い、この会社は前に進めるのか。

三つ目は、何よりも私自身を苛む「自己への不信感」だった。 救世主であり、人として完璧だとさえ思っていた彼女に「ドライだ」「ついていけない」と言わしめた。稲盛和夫さんの本を読み、人の道を説こうとしながら、私は一番近くにいた戦友の心を繋ぎ止めることさえできなかった。

経営者として、一人の人間として、俺は本当に大丈夫なのだろうか――?

答えの出ない問いが、暗いオフィスの中で渦を巻いていた。それは債務超過の時とはまた違う、孤独で冷たい痛み。会社の心臓を自らの手で抉り出してしまったような深い喪失感だけがそこにあった。

痛みも不安も全て共有…一人立ちの決意

「役員二名のほぼ同時の退任」というニュースは、静かだが確実な衝撃となって社内を駆け巡った。オフィスには言葉にはされない不安と動揺が色濃く漂う。「この会社は、大丈夫なのだろうか」。そんな無言の問いが社員たちの視線から突き刺さるようだった。

このままでは、組織は内側から崩壊してしまう。私は最大のピンチを前に、退路を断つ覚悟を決めた。数日後、全社員と主要なプロ人材を集め、合宿(オフサイトミーティング)を開いた。場所はいつものオフィスではない。空気が澄んだ郊外の研修施設。ここで私たちは未来の話をしなければならなかった。

全員が揃ったミーティングルームの壇上に立ち、私は深く一度息を吸った。

「皆に、正直に話したいことがあります」

私は毛利の退任について一切の憶測を挟まず、事実だけを伝えた。その上で、彼女がキャリーミーにとって、どれほどかけがえのない存在であったか感謝の言葉を重ねた。

「彼女の卒業は会社にとっても、私個人にとっても、計り知れないほどの痛みです。正直に言えば、今も不安で仕方がない。私自身、『経営者として大丈夫なのか』と何度も自問自答しました」

包み隠さず、自分の弱さを晒す。社員たちの顔に、緊張が走るのが分かった。

「だが」と、私は続けた。

「私たちは、ここで立ち止まるわけにはいかない。彼女が命懸けで育ててくれたキャリーミーをさらに大きく成長させる責任があるからです。これからは、CMOであり取締役の毛利さんがいなくなる。なので、毛利さんではなく、私自身が各事業部の先頭に立つ。こんなに小さい組織なのだから、CMOという中間層をなくし、よりダイレクトに皆と向き合っていく。これはピンチかもしれない。だが、見方を変えれば私たちがより強く、速い組織に生まれ変わるための最高のチャンスなんだ」

そう、「確定したこと」の事実は変えられない。

変えられるのはそこへの解釈で、重要なのは、そこからいかに明るい未来を構築するような新しい構想を描けるか、だ。

自社が社員にも共有しているフィロソフィー(哲学)の1つにもある。

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ピンチこそがチャンス

「解釈」で人生も会社の経営も、どうにでもなり得る。

挑戦し続けると「だめだ」と思うことは何度も出てくるが、「だめだ」と思ったら、そこが終わり。

ピンチをいかにチャンスに変えられるか、そこへの頭の使い方、努力の仕方で結果は変わる。
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債務超過を含め、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた私にとって、こうした切り替えができることは強みでもあった。

私は改めてキャリーミーのビジョンを、魂を込めて語った。「挑戦できる人、挑戦できる会社を増やす」。その原点に、もう一度全員で立ち返るのだと。ミーティングが終わる頃には、部屋の空気は一変していた。不安は確かな覚悟と熱気に変わっていた。

その後の変化は劇的だった。意思決定のスピードは格段に上がり、各事業部は直接社長である私に提言したり議論する。なんとか、活気を取り戻した。皮肉なことに、結果からすると、会社は役員二名が去った後に、会社は(広告に予算を投下して以降)はじめての「月次の黒字化」を達成したのだ。

最大のピンチは、私たちを確かに強くした。だが、夜、一人になると今はない戦友の不在を痛感しない日はなかった。彼女がいたから、私たちはここまで来られた。その事実に、感謝の念が込み上げる。

もう隣にはいない。だからこそ、私は一人で立たなければならない。
彼女が託してくれたこのバトンを未来へ繋ぐために。 私は静かに顔を上げ、次なる挑戦の舞台へと一人で歩き始めた。

▲毛利の送別会での1枚

【10章へ続く】

編集協力・木村公洋