起業・パラレルキャリア物語

アクアビット航海記「ある起業物語」 vol.26〜機会を逃さず飛び込む

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みなさんこんにちは。合同会社アクアビットの長井と申します。昨年の8月からCARRY MEさんに連載している「アクアビット航海記『ある起業物語』」の第26回です。今回は、機会を逃さず飛び込むことで、私の人生がひらける話です。

1999年は私の前後半生を分けた年

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(Seikima-II 20100704 Japan Expo 09.jpg From Wikimedia Commons)

1999年。ノストラダムスの大予言で恐怖の大王が落ちてくるはずの年。ユーロ導入で幕を開け、2000年問題の不安で幕を閉じました。台湾で、コロンビアで大地震が起き、天変地異の不安に世間が苛まれた一年。NATOがユーゴスラビアを空爆し、東海村JCO臨界事故やコロンバイン高校の銃乱射事件に世間は震えました。世紀末じゃないのに聖飢魔IIが解散した年でもあります。

この頃、世間を騒がせるニュースは不景気を反映したものばかり。バブルが弾けてから続く不況は、一向に明るい兆しを見せません。そんな一年でしたが、私の1999年は起伏に満ちていました。丸刈りにされ、クビにされ、飛び出すように上京し、家を借り、職に就き、親から自立し。その経緯は今までの連載で触れたとおりです。1999年の私はそれだけにとどまりません。結納し、大邸宅に一人住み、婚姻届けを提出し、結婚式と披露宴と二~四次会を挙げ、新婚旅行に旅立ち、職場では統括部門に引き上げられました。目まぐるしいあまり、かえってその年の私の記憶はあいまいなほどです。今回は親から自立してからの私の1999年を語りたいと思います。

26歳にして大邸宅に一人住む

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9月29日。4月1日からの独り暮らしが終わった日です。私は半年間住んだマンションを引き払い、町田へ引っ越しました。引っ越し先は前回も書いた町田駅近くに建つ敷地180坪の鉄筋3階建ての家です。私は結局、妻側の意向に負けてしまいました。心機一転、しがらみも遺産もなしに新婚生活を迎えたいと願った私の努力は水の泡となったのです。ただ、努力といっても大したことはありません。結婚をご破算にするほどかたくなに反対しなかったのですから。なので妻の実家の遺産に住むことになったのも私自身の選択の結果です。そもそも、その努力は報われない運命にあったのかもしれません。妻と新居を探しに行った回数は数えるほど。横浜線の中山駅近くの物件とか。でもどの物件も妻の祖父母が住んでいた大邸宅に比べると狭く物足りません。それも当然です。しょせん、180坪の家と比較できる物件などあるわけがないのです。いかんせん敷地の広さが違いすぎました。

その結果、私は26歳にして町田の中心部にある180坪の土地と二軒の家を自由に使える身分になりました。それは他人からすると恵まれた立場です。ギャクタマ人生ここにめでたく大団円、とはならないのが私の人生。ここで私の意思を貫かなかったことは、私のその後の人生に大きな影響を与えました。ひょっとするとこの家に住まなければ、私が“起業“することはなかったのかもしれません。ここに住んで得た恩恵は、私にそれ以上の重荷となってはね返ってくるのです。その重荷は、私を大きく成長させてくれました。そのてん末については、本連載でいずれ触れるつもりです。

「運用サポートチーム」に引き上げられる

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その前に私がスカパーカスタマーセンターの「登録チーム」から「運用サポートチーム」に移ったいきさつも書いておかねば。「登録チーム」の集計作業の手間を軽減するため、私が作った集計用Excelのマクロ。それについては連載の第23回で触れました。そのマクロが私に次なる道を開いてくれます。私が「運用サポートチーム」に呼ばれた理由は、ちょうどその頃「運用サポートチーム」で集計を担当されていたNさんが産休で離れることになったからです。その替わりの要員として私に白羽の矢が立ったのです。「登録チーム」に何やら集計ツールを作ってるスーパーバイザーがいる、という情報が届いたのでしょう。それをきっかけに私は半年ほど在籍した「登録チーム」を離れ、「運用サポートチーム」に移ることになるのです。

第23回で「登録チーム」での日々は楽しかったと書きました。派遣社員のオペレーターさんがたくさんいる職場。上京したばかりで心細い私にとって、学生のような若々しい気持ちでオペレーターさんたちと触れ合えたこと。それがどれだけよかったか。前職が社訓の絶叫と怒鳴り声の応酬にまみれ、終わりなきノルマと日報に毒された現場だっただけに、「登録チーム」での日々は私を救ってくれました。ところが「運用サポートチーム」にはオペレーターがいません。オペレーターどころかスーパーバイザーすらいません。「運用サポートチーム」のメンバーは、マネジャー、シニアマネジャー、そしてジェネラルマネジャーのみ。つまり、精鋭です。パソナソフトバンクが請け負う各チームを統括し、お客様(スカパー)と橋渡しを行う部門ですからスーパーバイザーの職責では務まらないのです。そんな部署ですから「運用サポートチーム」に「登録チーム」のようなオペレーターさんたちとなれ合えるような楽しさは期待できません。運用サポート島はオペレーターやスーパーバイザーにとって近寄りがたい雰囲気を漂わせていました。

ただ私には「運用サポートチーム」に移るにあたり、深刻に葛藤した記憶がないのです。いまから振り返るとそんな伏魔殿のような「運用サポートチーム」への異動は断るべきだったのかもしれません。慣れ親しんだオペレーターさんやスーパーバイザーさんたちから離れることにためらいを感じなかったはずはないですし。それでも私は、あまり深く考えずに了承したように思います。多分、当時の私は目前に迫った結婚のことで精いっぱいだったのでしょう。同じ大変なら異動もあわせて受けてしまえ、という心境だったのかもしれません。

機会を逃さず飛び込むことが今の私を作った

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いま思えば、この時に異動を了承したことで、私は起業へと続く道の一歩を踏み出したのだと思います。なぜなら、このときから起業に至るまで、私の人生にはステップアップの機会が次々とやってくるからです。

本連載の第一回で私はこう書きました。
「いままで、私の人生には岐路がいくつも訪れました。その度に、私は個人と家族と仕事を平等に扱い、判断してきました。」と。
ここで私は岐路が訪れた、と書いています。起業までの私の人生を振り返って思うのは、私が自分から積極的にチャンスをつかみに行ったことがさほどないことです。私から岐路へ向かうのではなく、岐路が向こうから私のもとを訪れるのです。私はその度ごとに判断を下してきただけにすぎません。私の何が起業に至らせたのか。その問いに答えを出すとすれば、それは向こうからやって来るチャンスをことごとく受け入れたことだと思っています。ここで私の妻が母から聞いた話を紹介しておきます。「世の中には雨のようにチャンスが降ってくる。そのチャンスを傘をさして避けて歩くか、受け止めるかはその人次第だ」と。まったくその通りだと思います。

先に自分から積極的にチャンスをつかみにいったことはない、と書きました。それはつまりアピールです。例えば「登録チーム」でマクロツールを作ったのは私が技術をアピールするためではありません。私のスキルをアピールするためにマクロを作ったのではなく、単に集計作業を楽にするためにマクロを作っただけのこと。それを同僚のスーパーバイザーのためにチーム内で公開したものがたまたま「運用サポートチーム」の眼に止まっただけなのです。このころ、私はWindowsやExcelのショートカットも覚えましたが、それもすべてはマウス操作が面倒だったからの話。ただ目の前の課題を改善するために取り組み、それを無償で周りに提供していた。今思えば、私は面倒を逃れたいだけのつもりでも、それが無意識に利他の実践になっていたのでしょう。

自分からアピールに行かないので、そもそも断られるはずがありません。向こうから申し出が来るのですから、私がそれを受け入れるだけの話。私はこういう機会が来た時に自信がないとか不安だからという理由で断ったことはほとんどありませんなぜならできるかどうかはその場になってから初めてわかることだから。ひょっとすると私が楽観的で何も考えていないだけかもしれません。ですが、この時のような機会が来る度に及び腰にならず、あるがままに受け入れたことが今の私を作っているのです。芦屋市役所や神戸市役所やダンロップの話を紹介していただいた時もそう。社会保険事務所のバイトを紹介してもらったときもそう。派遣社員の時こそ、自らアピールせず収入が途絶えてしまいましたが、それは私自身の実力がなかっただけ。今、振り返って思うのは、たくさんのありがたい申し出を拒まず、新しい世界に飛び込み続けたから今の私があることです。

ですから、考えようによっては最初に書いた新居の話も結果的には良かったのかも。ここで私が妥協したことで、家をめぐる試練から逃げずに立ち向かえたのですから。26歳には重すぎる荷を背負ったこの時の選択。これが私を成長させ、現在もなお結婚生活が続かせているのだと思います。

1999年のその後について簡単に触れておきます。9/29に町田に引っ越した私は、10/11に妻と婚姻届けを提出します。10月某日に引継ぎのため「運用サポートチーム」に着任。11/21には披露宴、二次会、三次会を滞りなく行ないます。そのまま新婚旅行に一週間出かけ、帰ってきてからは前任者Nさんが離任した後の集計作業を担います。そして妻と二人、大邸宅に住むことになります。

最後に1999年の私になり替わり、お世話になった皆様にあらためてお礼を申し上げたいと思います。スカパー、引っ越し、披露宴、二次会、三次会、ハワイ。とてもたくさんの人にお世話になりました。関西を飛び出し、東京に出てきた1999年を境に私の後半生は始まります。そんな私のために関西からたくさんの友人に来ていただいたことは今もよい思い出です。披露宴と二次会は私の前半生と後半生をつなぐ懸け橋なのです。

次回は「運用サポートチーム」での日々を語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。

この記事を書いた人

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アクアビット長井

合同会社アクアビットの代表社員としてIT業界におります。kintoneエバンジェリストでもあります。独学の人生です。 旅行、読書、スポーツ、酒、音楽・映画、その他趣味嗜好は広く浅く持っています。
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