起業・パラレルキャリア物語

アクアビット航海記「ある起業物語」 vol.22〜上京してまもなく

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あけましておめでとうございます。合同会社アクアビットの長井と申します。昨年の8月からCARRY MEさんに連載している「アクアビット航海記『ある起業物語』」の第22回です。前々回の上京への決断を経て、前回は前半生をまとめさせていただきました。今回は、私が上京した当初のことを書いています。

上京したてのなにもない私

1999年4月。かばん一つだけで東京に出てきた私。最低限の服と洗面道具、そして数冊の本。それこそ、数日間の小旅行のような軽装備。これから住むとはとても思えない格好。

当時の私には持ち物も頼りがいもありません。さらには移動手段も自分の足とバスや電車だけ。それどころか、携帯電話はおろか固定電話すら持っていなかったのです。ノートパソコンなど持つのは相当先ですし、インターネットなどとんでもない。私と世の中をつなぐのはただ郵便のみ。妻がいなければ私は東京でひとりぼっちでした。

いまから考えても、私が住むことになった相武台前のマンションは、東京生活の足掛かりとするにはあまりにも頼りなかった。大宇宙の中の砂粒のようにはかない住まい。それでも、当時の私にとっては初めて構えた自分だけの城です。

完全なる孤独と自由の日々

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現在の恵まれたコミュニケーション手段に慣れきっていると、この頃の私がどうやって世間と渡りをつけようとしていたのか思い出せなくなります。でも、何もなかったのがかえって新生活の出だしには良かったのかも。妻以外の知り合いはほぼ居らず、徹底した孤独。それでいて完全なる自由。この頃の私が享受していた自由は、いまや20年近くの年月が過ぎ、かけらもありません。

この連載を始めてからの数カ月、私はFacebookをあえてシャットアウトしていました。毎日、投稿こそすれ、他はほとんど目を通さずに。仕事が忙しくFacebookを見ている時間が惜しかったことも理由です。ですがそれだけではありません。現在の私は当時の私にできる限り成りきろうと試みています。自由な孤独の中に自分を置こうとして。もちろん、現在の私は家族も養っているし、仕事も抱えているし、パートナー企業もいるし、そんなことはハナから無理なのです。それは分かっています。ですが、上京当初の私が置かれていたしがらみのほとんどない孤独な環境。それを少しでも思い出そうとしているのです。多分、この頃の私が味わっていた寄る辺のない浮遊感を再び味わうには、老境の果てまで待たねばならないはず。

当時の私がどういう風にして生活基盤を整えていったのか。当時、メモを残しています。住民票の手続きを済ませ、家の周りを探険し。歩いて自転車を買いに、行幸道路を町田まで。国道16号沿いに沿って相模原南署で免許の住所移転をしつつ、淵野辺まで歩き、中古の自転車を購入し。まず、これで移動手段を確保。通信手段については、住んで2、3カ月ほどたってからポケベルを契約したような記憶があります。

職探し

生活の基盤を整える合間にも、あり余る時間を利用してあれこれ動き回っていました。例えば土地勘を養うため、自転車であれこれと街を見て回ったこともその一つ。町田から江の島まで自転車で往復したことはよく覚えています。帰りにどこかの公衆電話から内定をいただいた企業の一つに電話をかけ、内定を辞退したことも含めて。あとは妻の住む町田に足しげく通っていました。結婚式の計画を立てるなど、あれこれと楽しく過ごしていたはずです。

足の確保に続けて私が取りかかったのは職探しです。そもそも私が上京に踏み切ったのは、住所を東京に移さないと東京の出版社に就職もままならないからでした。これで住所については条件が整った、と勇躍してほうぼうの出版社に履歴書を送ります。ところが、出版経験のない私の弱点は、東京に居を移したからといって補えるはずがないのです。そして、東京に出たからといって、出版社の求人があふれているかといえば、そうでもありません。出版社への門は狭かった。私は、出版社以外にも履歴書を送り始めます。そのうちいくつかの企業からは内定ももらいました。それらの会社で覚えているのは品川にあった健康ドリンクの会社の営業職と、研修企画会社の企画の仕事でした。が、あれこれ惑った末、私から断りました。大成社に入ってしまった時と同じ轍を踏むことは避けなければ。確かに上京したことで就職活動には手応えを得られるようになりました。かといって、いつまでも会社をえり好みして無職でいると生活費も尽きます。もはや出版社の編集職にこだわっている場合ではないのです。

また、もう一つ言っておかねばならないのは、職探しにあたっては妻や妻の家族には一切頼っていないことです。将来の結婚が見えていて、職がなかったにも関わらず、私は妻に職のあっせんは頼みませんでした。また、妻もお節介を焼こうとしませんでした。そもそも妻が勤めていたのが大学病院の矯正科で、私に職をあっせんしようにもできなかったはずです。結果的にそういう安易な道を選ばなかったことは当時の私と妻を評価したいです。ただ、一つだけ妻が紹介してくれた仕事があります。それは、エキストラ俳優の仕事です。大田区の雑色にある某歯医者さんで経営コンサルタントの先生がビデオ教材を録画するので、私は患者役として出演しました。確か私が上京して数日もしない頃だったはず。当時の私に才がほとばしっていれば、この時のご縁をもとに別の明るい未来を切り開いていたことでしょう。ですが、当時の私にはそういう発想がありません。愚直に面接を受け、どこかの組織に属して社会に溶け込むことしか頭にありませんでした。つまり正攻法。

このころの私の脳裏には、まだ自営や起業の心はありませんでした。まず東京での生活を確立すること。それだけに目が向いていたのです。自分が社会に出て独自の道を開く欲よりも、大都会東京に溶け込もうとする焦りが勝っていたのでしょう。この時、私がいきなり起業などに手を出していたら、すぐさま東京からはじき出され、関西にしっぽを巻いて帰っていたに違いありません。もちろん、妻との結婚もご破算となっていたことでしょう。無鉄砲な独り身の上京ではありましたが、そういう肝心なところでは道を外さなかったことは、現在の私からも誉めてやりたいです。

結局、私が選んだのは派遣社員への道でした。職種は出版社やマスコミではありません。スカイパーフェクTV、つまり、スカパーのカスタマーセンターです。マスメディアの末端。そのスーパーバイザーの仕事が就職情報誌に載っていたのです。私はそれに応募し、採用されました。考えようによってはせっかく東京くんだりまで来て、派遣社員しかつかめなかった訳です。

しかし、この決断が私に情報処理業界への道を開くのです。次回はこのあたりのことを語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。

この記事を書いた人

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アクアビット長井

合同会社アクアビットの代表社員としてIT業界におります。kintoneエバンジェリストでもあります。独学の人生です。 旅行、読書、スポーツ、酒、音楽・映画、その他趣味嗜好は広く浅く持っています。
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