起業・パラレルキャリア物語

アクアビット航海記「ある起業物語」 vol.20〜航海記 その9

電車を待つ足元

みなさん、こんにちは。合同会社アクアビットの長井と申します。この8月からCARRY MEさんに連載している「アクアビット航海記『ある起業物語』」の第20回です。前回に続いて起業に至るまでの歩みを語っています。今回は、私が単身上京に踏み切る話です。

上京への想いがもたげる

朝礼の場でクビを言い渡されてからの私。大国町の駅そばにあった大成社からトボトボと北へ歩いたことは覚えています。が、そのあと私がどう過ごし、どう帰宅したか、そして2月いっぱいをどう生きたのか。まったく覚えていません。鬱にはならなかったものの、屈辱が私の記憶を抹消したのでしょう。

いま、このころの私が何を思っていたのか、思い出すよすがはありません。ただ言えるのは、打ちひしがれている暇などなかったことです。3カ月痛められ続けても、前へと進む私の決意はいささかも揺らぎませんでした。手負いの私は、出版社をクビになってもなお、出版社に向けて履歴書を書いていました。そして断られ続けていました。2月、3月を通して。そして私はついに気づくのです。兵庫の住所で東京の出版社に履歴書を出し続けてもらちがあかないことに。東京の会社に就職したいのなら、住所を東京に移さねば

東京への移住を決意した私。親に対してどういう風に話を切り出したのかは覚えていません。でも、うちの両親は、くすぶり続けている私が飛び立てるのなら、と最後は了承してくれたように思います。

両親に対する思い

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私の両親についてもお礼を言っておかねばなりません。1996年。春、大学を出たのに職に就かない長男。秋、落成した新居への引っ越し。私の両親にとっては心労の濃い一年だったはずです。引っ越しの登記も母が自力で済ませ、着々と地震前の日々の水準を取り戻しつつ。そんな忙しい中、私の父は不肖の長男のため、就職先を探しに動いてくれます。当時、私の父は尼崎市役所の職員でした。確か部長級だったはず。その縁を生かして私に就職口をあっせんしてくれました。尼崎市の外郭団体の職員の口を。私はそこの面接を受け、合格します。ところが、私は悩んだ末にこの話を蹴ってしまいます。自ら安定への道を閉ざしたのです。それだけでなく、私の決断は父の面目を失わせました。当時も現在も、尼崎市役所の外郭団体の話を断ったことに後悔はありません。しかし、私の決断は父の思いや配慮を踏みにじってしまいました。それは自覚しているし、こうして本稿を書いていて、申し訳ないとの思いが募ります。あらためて謝ります。ごめんなさい。

父からの紹介を断った私はほどなくして、大学の先輩に紹介していただいた芦屋市役所にアルバイトとして入ります。そこから後の経緯は、本連載の第16~19回で触れた通りです。それからの2年半、あれこれと人生を惑い模索する不肖の長男を、よくぞ辛抱して飼ってくれていたと思います。ありがとう。

私の父は5人の兄弟姉妹の長男です。私はその長男。つまり、私は世が世なら長井家の跡継ぎとして関西に腰を据えなければならない立場。その私を東京に出すことに、うちの親が葛藤を感じなかったはずはないでしょう。私自身もわずかにその意識は持っていましたし。さらに当時、東京には親しい親戚が一人もいなかったとなればなおさらです。当時の私自身にとっても、東京に住む友人は数人しかいませんでした。高校の同級生や大学のゼミ仲間、政治学研究部の後輩など。でも、今回ばかりは友人たちに甘えるわけにいきません。しかも、1998年12月23日には、新横浜で妻にプロポーズしてOKをもらっています。いまさら後には引けません。東京に出て自分の道を切り開くべき時が来たのです。私の人生は猛々しく前のめりになっていました。体裁など度外視で。

そして上京へ

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あと数日で1999年の3月が終わろうとする日、私は上京します。妻にこれからの希望を語りつつ、私は、町田と蒲田のカプセルホテルに泊まりながら、ハローワーク訪問や家探しに動きまわります。家探しにあたっては、新宿大ガードの近くにある不動産屋を訪問しました。なぜ新宿の不動産屋さんかというと、小田急の駅で見つけた住宅情報紙にその会社が載っていたからです。東京に住んだことがない私が、いま考えると非効率に思える新宿の不動産屋にたどり着いたのは仕方のないことです。なんといっても、それまで家探しをした経験といえば地震で家が全壊したときぐらいなので。

東京にまったく土地勘がなかったわけではありません。それまでも、私は何度か東京に来ていました。そして、その都度友人たちの家に泊めてもらっていました。「ムーンライトながら」や東京・大垣間の夜行電車を利用して。でも、旅するのと住むのでは大違いです。私はどこに住むのかも決めずに上京しました。妻が住んでいたのが町田だったので、町田の近く、小田急線沿線が良いだろう、くらいの考えでした。

ところが、結果的にはこちらの不動産屋を選んだことで私の家探しはスムーズに進みました。この不動産屋さんがピックアップしてくれたのが、小田急線の東林間と相武台前の2軒です。時間が惜しかった私は、相武台前のマンションだけを訪れ即決します。この時、保証人などまったく考えていませんでした。賃貸契約を結ぶにあたり本来はそういう身分証明の手段を考えねばなりません。ですが、前のめりの私は何も調べず不動産屋に飛び込んだのです。その時に不動産屋さんが提案してしてくれたのが、知り合いの運送会社に名前だけ社員として雇用されること。当然、即決です。もう不動産屋さんの名前も、雇用された会社名も忘れてしまいましたが、感謝しています。

私が住むことになった相武台前。つい先日、本稿を書くふた月ほど前に世間を騒がせた座間9遺体事件の舞台として有名になりました。私の住んでいたマンションは、事件現場となったマンションから、相武台前駅を挟んでちょうど反対側に当たります。住所は相模原市。家賃は31000円でした。敷金や礼金はいくらだったか忘れました。

こうして、東京に住まうための橋頭堡(きょうとうほ)を確保した私。いったん、甲子園の実家に帰ります。実家での数日間で、親以外に直接別れを告げる機会があったのは数人ほどでしょうか。SNSなどない当時、一斉連絡のすべはありません。実家のパソコンから転居を知らせるメールを送り、別れのあいさつとします。多分受けとった友人たちにとっては、寝耳に水のお知らせだったことでしょう。それほどまでに、私が上京を決意してから引っ越すまでの期間は短かったのです。多分2週間くらい。人生には一度ぐらい、疾風怒濤のように物事を決断し、行動する瞬間があります。私にとっては1999年3月がそうでした。

1999年4月1日。私はカバン一つで再び上京します。世間ではウソが許されるこの日ですが、私の住民票には相模原市民になった証が確かに刻まれました。

慌ただしい出立。そして、上京。私の後半生の始まりです。25才。春の気配が色濃く漂っていました。

この記事を書いた人

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アクアビット長井

合同会社アクアビットの代表社員としてIT業界におります。kintoneエバンジェリストでもあります。独学の人生です。 旅行、読書、スポーツ、酒、音楽・映画、その他趣味嗜好は広く浅く持っています。
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