起業・パラレルキャリア物語

アクアビット航海記「ある起業物語」 vol.17〜航海記 その6

みなさま、こんにちは。合同会社アクアビットの長井と申します。この8月からCARRY MEさんに連載している「アクアビット航海記『ある起業物語』」の第17回です。前々々々々回より起業に至るまでの歩みを語りはじめています。今回も、私が社会に出て自らの無力さを感じる話です。

システムの現場に入る。そしてただ座っている。

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芦屋市役所を離れた私が次に訪れた場所。それは神戸三宮でした。DUNLOPといえばテニスボールで有名ですが、ここのシステム統括部門らしき場所。それが私の次の職場となりました。

ところが、私はここで一体何を仕事をしたのか。そもそもなんのためにいたのか、全く思い出せないのです。それもそのはずで、私はなんの仕事もしていないからです。上で統括部門らしき場所、と書きました。らしきというのは、私がそもそもそこが何を目的とする場所か、皆目、理解していなかったからです。なんとなく記憶しているのは、全国の統括部門だったことと、現地にエンジニアを派遣し、エンジニアの支援をする場所だったことだけ。それも周りの会話をなんとなく覚えているから言えることで、当時の私はなんのためにそこにいたのか、今もなお思い出せません。大勢の技術者がそれぞれの業務に従事する中、私は数人のシステムエンジニアのチームに配属されました。随分とチームのエンジニアの皆さんにかわいがってもらった記憶もあります。覚えているのは、何かの文書入力を頼まれた時のことです。wordでALTキーを押しながらドラッグ&ドロップすると、行単位でなく縦方向に範囲選択できる機能があります。なぜかその機能を知っていた私が文書入力時にその技を使っていたら「それは知らんかったわ〜」と感心されたことくらい。それはつまり、本業では何も貢献していなかったことと等しい。つまり、なんの取りえもなかったのでしょう。私をかわいがってくださったエンジニアさんたちの名前も顔も何人かは覚えています。ですが、今の私が「お久しぶりです~」といっても全く覚えられていないはず。ひょっとしたら「ああ、あのただ座っとっただけの彼?」と言われるかもしれませんが。結果、その現場も数カ月で離任になりました。それはそうでしょうね。そもそもなんの業務をする部署か把握できない人間を養うほど甘くはありません。今の私ならそう思います。

このDUNLOPの現場も、芦屋市役所の時と同じく、大学の政治学研究部の先輩が手配してくださいました。その先輩の属する大手情報企業の系列会社に雇っていただいたのです。多分、アルバイトか派遣社員の身分としてだったような覚えが。そしてDUNLOPを離任した私のためにこの先輩はなおも懲りずに私のために骨を折ってくださったのです。私を人材派遣会社に紹介するという方法で。つまり、派遣社員です。派遣元の会社名は日本ワークシステムさん。山陽電鉄のグループ会社で、今も会社は健在のようでなによりです。

データ入力で望外の報酬をいただく

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日本ワークシステム経由で、私は二カ所に派遣されました。確か最初は神戸市役所の本庁舎です。ここでもわたしが何をしていたのか記憶は曖昧です。が、確かデータエントリーのオペレータだったように思います。ここで覚えていることもあまりありません。言われるがままにデータ入力をこなしていたのでしょうね。何を入力していたのか全く覚えていませんから(あとで調べたら、Accessで奨学金の給付データの登録だったようです)。この部署は市役所のシステムの統括部門だったらしく、サポート担当のエンジニアの方が淡々と電話対応していた声の調子だけは、いまだに覚えています。木で鼻をくくったような事務的なサポートだけがなぜか。さて、神戸市役所には2週間程度通勤していたでしょうか。次に私が派遣されたのは山陽電鉄の本社です。ここでは確かAccessのフォームに住宅情報を入力していたようなうっすらとした記憶が残っています(あとで調べたら、Accessで不動産部門の契約データを登録していたようです)。ここで覚えていることといえば、Accessのデザインなどしたこともない素人の私が、エンジニアの方に入力フォームに注文を付けたことです。全くなんという思い上がりか。もちろん、データエントリーはきっちりこなしましたよ。神戸市役所も山陽電鉄も与えられた期限よりもだいぶ早く打ち込みを終えてしまいました。私は打ち込むスピードだけは速かったのでしょう。入力が早く終わった分、全体の入力件数に対する報酬からすると、ずいぶんと高い金額をもらいました。たしか一日単位に換算すると数万円にも及んでいたような。

望外の報酬を得たことで、私はデータエントリーの仕事を甘く見てしまいました。データエントリーの仕事を続けていれば、一日数万円も稼げると。今思うと勘違いもはなはだしい。でも、当時の私はまさに大いなる勘違いの中に遊んでいました。何が勘違いかって、データ登録をこなすだけでは将来の成長がないことです。それは、今の私が当時のデータエントリーやDUNLOPでの仕事の内容を全く覚えていないことで明らかです。もし私が前向きにこれらの仕事から何がしかの糧を得ようと、自分を成長させようと取り組んでいたら、仕事の内容ぐらい少しは覚えているはずだからです。それがたとえ20年前のことであっても。要するにまだ舐めていたのでしょう。仕事を。

私が山陽電鉄の現場を離れたのがいつか、全く記憶にありません。そもそも上に書いた当時の私の勤務先の変遷すら本当にそうだったのか確信はありません。芦屋市役所→DUNLOP→神戸市役所→山陽電鉄の順だったと思うのですが、芦屋市役所→神戸市役所→山陽電鉄→DUNLOPだったかもしれません。曖昧です。そもそも芦屋市役所を離れたのが1998年の3月末だったかすら、自信がなくなりました。そんなわけで、昔の記録をがんばって探り出しました・・・・・あっ!!!! ・・・・私は皆様に謝らなくてはなりません。当時のシステム手帳の切れ端によると、私が芦屋市役所を離れたのは1997年の10月末日だったようです。前回書いた内容は一部修正させてください。私が芦屋市役所にいたのはちょうど一年だったようです。記録を残していなかったつもりでしたが、奇跡的にシステム手帳の中身が残されていましたね。そして、上記の日本ワークシステムにいたのが、3月末までだったようです。

ただ作業するだけでは何も進歩しない

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今の私が、当時の私から教訓を一つ導き出せるとすれば、当時の私は言われるがまま、だったことに尽きます。工夫のない仕事はただの作業。作業は人は成長させない。ということなのでしょう。当時の私にまだ起業できるだけの経験もなければ、起業に至る兆しすらまったく感じられません。月日の記憶すら曖昧なくらいに。

ただ、好転の兆しが全くなかったわけではありません。というのも、データ入力で食っていけるとの思い込みの甘さに間もなく気付くからです。そして、私にいよいよ次なる転機が訪れます。連載の第十五回で1996年から1999年の3月までは記憶があいまい、と書きました。このころ、私は鬱状態から脱したとは言え、全てが手探りな日々が続いていました。ですが鬱から立ち直った反動は、私を再び前向きな方向に推し進めます。本は相変わらず読みまくっていました。一日で5,6冊を読破することなどザラにありました。そして、私は書を捨てずに街に出ようと試み始めるのです。私は再び世の中に飛び出していこうとし始めます。いろんな場所を訪れ、人と会話し、何かをつかもうとし始めます。

次回は、そんな私の日々を振り返ってみる予定です。

この記事を書いた人

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アクアビット長井

合同会社アクアビットの代表社員としてIT業界におります。kintoneエバンジェリストでもあります。独学の人生です。 旅行、読書、スポーツ、酒、音楽・映画、その他趣味嗜好は広く浅く持っています。
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