起業・パラレルキャリア物語

アクアビット航海記「ある起業物語」 vol.16〜航海記 その5

みなさま、こんにちは。合同会社アクアビットの長井と申します。この8月からCARRY MEさんに連載している「アクアビット航海記『ある起業物語』」の第十六回です。前々々々回より起業に至るまでの歩みを語りはじめています。今回は、私が社会に出て、プログラミングに触れる話です。

パソコン素人のデータ入力オペレータ

阪神・淡路大震災から1年9カ月後、地震で全壊した家を親が建て直し、一家で西宮に戻ることになりました。時に1996年の10月。そんなタイミングで、先輩が声をかけてくださいました。データ入力の仕事をしないか、と。その先輩は本連載の第13回でも少し登場いただいた政治学研究部の方で、私が卒業する一年前に新卒で社会に出ていました。その先輩が勤めていたのは、日本で知らない人はいない大手情報企業です。先輩は当時、兵庫県の芦屋市役所の人事システムの刷新案件を手掛けていました(20年前とはいえ、念のためシステム名は企業名とともに伏せておきます)。営業担当だった先輩がデータ入力のオペレーターを手配する必要に迫られたところ、大学を出たのにふらついている後輩がいて、しかもそいつはブラインドタッチができたはず。そんないきさつで私に声をかけてくれたのでしょう。

現在の私はそういった仕事上の判断や手配の流れを理解しています。現在の私が定職のない若者を知っていれば、当時の先輩のように案件の要員として白羽の矢を立てるはず。でも、当時の私にはそういう事情はさっぱりわかりません。上では刷新案件などとわかったようなことを書いていますが、当時の私は仕事の流れも何も知りませんでした。その話をどういう風に受けたのか、その時に私がどういう判断をしたのかまったく覚えていませんが、おそらくためらうことなく受けたことでしょう。そして、これが私の転機となりました。

そもそもまともにパソコンを使うのは初めて。連載第十四回で取り上げたダブルスクールで触ったことと、大学の課外講習で一太郎の文書を作って5インチディスク(!)に保存したくらい。あとは、シャープX68000でゲームやパソコン通信を少しかじっていたことでしょうか。本連載を読んでくださっている方で、シャープX68000をご存知の方は少ないでしょうね。でも当時は名機でした。そしてシャープX68000を譲ってくださったのが当時在学中の先輩でした。先輩もまさか数年後に私にパソコンの仕事を世話するなんて思っていなかったでしょうね。人生どういうご縁があるかわかりません。ちなみにこの先輩は地震で全壊した我が家にまっ先に駆けつけ、差し入れを持ってきてくださった方でもあります。

さて、先輩から話を受けたとはいえ、パソコンはまったくのずぶの素人。果たして私にパソコンを使った仕事ができるのか。なので、引っ越しのタイミングでうちの親がパソコンを買ってくれました。確かWindows 95だったはず。とにかくよくわからぬまま、プレインストールされていたLotus1-2-3をおっかなびっくり触っていました。いまやシステムで身を立てる経営者でござい、と名乗っている私ですが、本当にITリテラシーが皆無だったのです。この時は。

芦屋市役所でのデータ入力の仕事。これが私の社会デビューです。1996年の11月。当初は二人の女の子と一緒に過去の職員の人事経歴を一生懸命パソコンに打ち込んでいました。当初、IMEの変換方法がわからず、半角カタカナで一生懸命打ちこんだ住所や名前を「ニイタカヤマノボレじゃないから!」とシステムエンジニアの方に怒られたのもこの時です。後年、ITで身を立てていけるめどがついたあと、このエピソードは何度も使わせてもらいました。ようは当時の私がそのくらいパソコン音痴だったということです。そんなヤツがよくもまぁ金融機関の常駐エンジニアになりおおせ、しかも起業にまで踏み切ったなぁ、というネタに若干の自尊成分を振りかけて。私はいまもなお、ユーザー側の立場でシステムを考えてしまいますが、それはオペレーターからキャリアをスタートさせた初っ端の経験が尾を引いていると思います。

システムエンジニアという人たち

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そんなオペレータの仕事ですが、ほどなく女の子たちは退場することになり、私一人でデータ入力の仕事を任されるようになりました。多分ブラインドタッチの腕が認められたのでしょう。とはいえ、責任が増したわけではなく、自由でした。広い部屋で好きな時間に昼食を食べ、好きな時間に持参のマグカップに紅茶をいれ。当時は紅茶に凝っていました。海外から茶葉を取り寄せたりして。懐かしい。優雅ですよね。いま思えば、この頃は仕事になんのプレッシャーも感じていませんでした。

でも、システムエンジニアの方は大変だったと思います。大阪だけでなく東京からもいろんな方が入れ替わり立ち代わり来られていました。素人の私にもシステム導入がうまくいっていない雰囲気が察せられるほどに。私が人生で初めてシステムエンジニアという人種に会ったのはこの時です。特にその中のトップエンジニアの方にはお世話になりました。私はこの方からエクセルマクロの初歩の初歩を盗み、また教わりました。ニイタカヤマノボレで叱ってくださったのもこの方です。また、この方からは人生を楽しむ秘訣も教わったように思います。あらゆるものに興味を示す姿勢は、人生を味わうには欠かせません。一緒にお昼を食べに行くたび、街中のあらゆるものに興味を示す姿。それはいまでも記憶に鮮やかです。20代の私がお世話になり、またお会いしたいと思う方は何人もいるのですが、この方もその一人です。S藤さん、私のことをおぼえていたらご連絡をお待ちしています。

実務で使うプログラムなどまったく経験のなかった私ですが、この時始めて実務で使うプログラムに手を染めました。そして、この経験が私にとってシステムエンジニアへの一歩となりました。現在も私はプログラミングを学ぶには実務が一番と思っています。それは、この時の自分の経験によるものです。

鬱におちいり、底を見る

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翌1997年の4月。私は正式に芦屋市役所の人事課のアルバイトとして、それまでいた広い部屋から移り、人事課の部屋で仕事をすることになりました。ここでは人事システムのオペレーションだけではなく、人事課の諸作業もお手伝いすることになりました。例えば人事考課の資料のチェックをしたり、 稟議書のひな形を作成したり。基幹システムの黒地に緑字の画面に文字をカチカチ打ちこみ、ひな形となる書類を印刷していたのは懐かしい思い出です。おおげさな帳合機で大量の書類を印刷したり。

そんな風に社会への一歩を踏み出し始めた私ですが、実は芦屋市役所に入った少し後から1997年の夏ごろまでの約9カ月が、これまでの40年少しの人生で一番の暗黒期でした。暗黒とは、精神が、です。多分、前年の地震遭遇から就職活動、旅三昧と続いた日々の反動でしょう。当時お付き合いしていた方から愛想をつかされたこともありました。その頃に読み漁っていた純文学の毒にもあてられたのでしょう。躁に踊らされた日々が一転、鬱に沈まされる。つらかったです。生きていく自信を失い、死を思い、抜け出そうとする気力すら湧かない日々。尾崎豊の「シェリー」を一日中聞いていたのもこの時期。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」で自殺する主人公に衝撃を受けたのもこの時期。毎日、かろうじて芦屋市役所には通っていたものの、自分がいつになるか這い上がれるのか、どこに行けばたどり着けるのか、完全に見失っていました。

そんなつらい日々でしたが、徐々に最悪の時期を抜け出すことができました。正直、この時期の思い出は断片的にしか残っていません。でも、楽しいことだっていくつかはありました。それは人事課の方々との交流の中で得られました。レクリエーションとして部課対抗のPK合戦に駆り出されたこともあるのですが、この時に私が決めたシュートの軌跡は、いまだに私の成功体験の一つに鮮やかに刻まれています。また、飲みにもよく連れて行っていただきました。そしてその度につぶれていたのもこの頃。神戸の山手の坂や芦屋駅前の路上で朝まで転がっていたことなどきりがありません。有馬温泉の保養所に泊りがけで連れていってもらったこともあります。そんな日々が私を暗闇から徐々に解き放ってくれました。

1997年の秋だったか、芦屋市役所の方からの勧めもあり、市役所の採用試験を受けました。もしこの時に受かっていたら私は1998年の4月から芦屋市役所職員になっていたはずです。ひょっとすると現在もまだ市役所職員で頑張っていたかもしれません。ですが、落ちました。多分、成績うんぬんより、私の状況や資質を見たうえの判断だったのでしょう。酒にも弱いし。でも、この時の人事課の皆さまには現在も感謝しています。私が辞める際、一介のアルバイトの私のために会議室を確保し、人事課の皆さまから送迎会を開いていただきました。ねぎらいの言葉をかけていただき、花束まで贈呈され。この時のことは忘れません。現在もなお、この頃お世話になった職員の方とは年賀状のやりとりを続けています。

芦屋市役所での約1年5カ月の日々。ここで私はコンピューターの初歩と仕事の基礎を学びました。一見、公務員と起業は正反対のベクトルを向いています。でも、目の前にあるタスクを解決しようとする時、そこには組織も個人もありません。起業の冒険も公務員の安定も関係ないのです。休日にも出勤されている人事課の方の姿(私が何のために休日出勤していたのかは覚えていませんが、多分人事異動の準備だったのでしょう。皆さんも私服で執務されていました)。日々の会話から感じる私の今後を案ずる思いやり。これまでの連載で何度も書きましたが、“起業”した現在でも、私は組織に勤める方をおとしめたり、下に見たりする気はありません。それはこの時の経験が大きいと思います。上に書いたトップエンジニアの方も見るからにひどい風邪で息も絶え絶えになりながら、東京から来て作業されていました。当時の私はそこで何が作業されているのか、まったく理解できませんでしたが、人々が懸命にタスクをこなし、責任をまっとうしようとする姿勢は23歳の若造の目に強く焼き付きました。その残像は私の人生の、とくに“起業”する上で何度もフラッシュバックして私を後押ししてくれています。

“起業”する前に、まず社会を知る。仕事を知る。これはとても大切なことだと思います。もし本連載を読んでいる方で起業を志す学生の方がいれば、その方には起業の心は大切に温めつつ、一度はどこかの組織でもまれてから“起業”した方がええよと言いたいです。ま、私が言っても説得力はないかもしれませんが。

次回は、芦屋市役所を離れた後の流浪の日々を書きます。ゆるく永くお願いします。

[writer-nagai]

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